本文紹介|巻末の「付記」より
付記 編著者からの追記―本書誕生の契機と経緯―
本書をつくる気持ちになったのは偶然の出合いがきっかけだった。不確かだが、「新渡戸稲造記念公園」が造成されたというニュースに接したときだったかと思う。ある日、ふと思い立ち、何とはなしにパソコンに向かい、「遠友夜学校」の検索を始めた。
「札幌市公式ホームページ」の「遠友夜学校記念室」が最初に出てきた。これを読み進めると、小項目「遠友夜学校のあゆみ」があって、ここには、年月日順に主要事項を並べた一覧表が載せられている。明治27年(1894年)から平成26年(2014年)までの約120年間の出来事が十数行に凝縮されて並んでいた。
眺めていた私の目は後半の行で止まった。「昭和19年(1944年)3月、閉校」とあって、次行は「昭和39年(1964年)6月、遠友夜学校跡に札幌市中央勤労青少年ホーム建設。施設内に遠友夜学校記念室開室」とあった。20年間の空白(省略)史があることにすぐ気づき、目が止まったのである。
ふと、また思いが及んだ。そこに(現在地表示名・札幌市中央区南4条東4丁目)に土地があり、それを敷地とする建物があり、そこを拠点として昔から何らかの事業所や人の生活が営まれてきたのであるから、空白扱い、つまり省略・削除されているということは、一つの観点として、単なる荒れ地であったか、遠友夜学校とは無関係の営業や居住がなされている建物が並んでいるに過ぎないか、の期間とみることができる。常識的には、そうみえて当たり前のことだったのだろう。
このことに私が敏感に反応したのには、個人的な思いがからんでいる。同一敷地に、この期間のかなりの間、私が勤めていた職場が存在し、事実としての状況を知っていたからである。それは児童福祉施設の一つ「北海道中央児童相談所」であり、戦前、社会事業の創始施設として存在した「札幌遠友夜学校」とは同類のものである。確か、土地を取り返すのに一役買った、保持する役も引き受けて借り続けている、とも聞いたような気がする。勤労青少年ホームと同様に、明記されても、省略扱いされるようなものでは決してなかった、との思いが強く込み上げた。
「ここに札幌遠友夜学校があった」と聞かされた話が頭の隅に残っていたのである。決して無縁ではないことを、当時の長野襄所長や、その後の大学教師時代にご縁ができた半澤洵氏や小塩進作氏から雑談の中で聞かされていた。
そんなふとした疑念から、空白の20年間がどんな扱いになっているかついて調べてみる気が起こった。そこで、いくつかの遠友夜学校関連の図書・論文に当たってみた。すると、記述の中で空白の20年(1944~1964年)について、ほとんどが、触れていないか、触れていても数行にとどまっていて、それも首をかしげるような事実とずれた内容の記述であることがわかった。
この事実から、略年表「遠友夜学校のあゆみ」が空白扱いにした期間に対しては、たぶん、おおかたの人も疑問や不審をいだくことはないであろう。いや、冷静に考えれば、気負ってこの道に飛び込んだ青春のこだわりが残っていなければ、私自身だって何とも思わないようなささやかなことにすぎないとはわかる。
だが私には、こだわるほどの思いとして浮かびあがってきたのである。果たして、そんな扱いのままでいいのだろうか、と。そのうえ、大げさに言えば、私の人生の一部が打ち消されてしまった気もした。そんな、空しいような、残念なような悔しい気持ちも残った。
時はずいぶん流れた。残念に思う気持ちは、何年経っても、頭の隅にくっついたままで消え去らない。それなら得心がいくように自分で調べ、ついでに関連事項もまとめ、書き残してあの世に行くしかない。たまたまご縁があった資料の、たまたま目にとまった記事を年月日順に並べてみる。それでもいいのではないか、それなりに意味があるのではないかと、独りよがりに納得もした。ぼちぼち資料を集め、慣れないパソコンに向かってひたすら加えていく作業を始めた。そして80歳を超えた。もたもたしていると時の経るのも速くなった。
気持ちとは裏腹に身体が怪しくなってきた。癌に侵されていることがわかって入院だ手術だとなった、難聴が進行した、視力が落ちてきた、白内障・緑内障の点眼も家族に頼まなければうまくできなくなった、新型コロナがはやって家族同伴の外出さえもままならなくなった、……、体力がどんどん落ちていく。正直、焦った。
開き直って、あとは祈る気持ちで、他人の情けにすがってみるしかない。そう思って試しにご活躍中の関係者にメールを送ってみた。すると、慈愛に満ちた親切な人に恵まれて、資料・情報が集まり、奉仕の精神で手助けしてくれる人もでてきた。気づいてみれば、あちこちに「遠友」がいた、新渡戸稲造の精神、遠友魂の持ち主である人々がまだいた。主な資料・情報の提供者は最初にあげたが、ほかにもたくさんの人にお助けをいただいた。
やってみると、腑(ふ)に落ちない、わからないことが多い。だが、投げ出すわけにはいかない。ご好意を無駄にしないよう、この段階で一度立ち止まって、感謝の意を込め、御礼の気持ちで、あるいはお詫びの気持ちで、世に出すことにした。ただただ感謝して甘えるだけだったが、何とかいびつながらもこうして形になり、1つのまとまりに仕上げることができた。
末尾の部分は超特急で端折ってしまい、肝心のことが抜けているような気もするが、以上が本書誕生の契機であり経緯である。
提供いただいた豊富な資料・情報も十分に生かしきれていない、理解が不十分なまま記述している、不本意な書き方をされたと不快に思われている方もいるかもしれない、……、との懸念も残っている。そんな方には深くお詫びを申しあげなければならない。今後の見直しの中で必要な加筆修正を加え、もう少し充実させたいとの願いもある。
最後に、お願いを加えさせていただく。この風変りな資料集は「未定稿」のまま存在し続けている。どなたかのお力添えで、もっと丸く大きなものに仕上げていただければ、この上ない幸せである。
ただただ、いろいろと快く応援してくださった方々に心より感謝を申しあげたい。
(付記の付記)
付記を書いていたところに、思わぬ貴重な宝物の贈呈が届いた。あわてて「付録2」に挿入して収め、本文も急いで少し手直しをした。
(2023年4月30日 編著者・白佐俊憲)
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