増改版(第2版)『遠友夜学校の遺産はどう伝承されたか』発刊準備中です!
◆ひと足先に内容をご紹介いたします◆
―2023.10.01―
<本書の体裁と価格>
本書初版はA4サイズで、定価は5,000円を目途に設定していました。残念ながら、そのどちらもが不評でした。そこで、増改版(第2版)では、ページ数が増えるものの、大きさはA4からB5と、サイズダウンいたしました。定価も、利益分を削って、できるだけお安くする所存です。実は、新渡戸稲造が旧5千円札の人物であったことにちなんで定価目標値を設定しておりました。
<本書の特徴|ご説明>
本書は、セクションの集合体です。「◎」が先頭の太文字の文章がそのセクションのタイトル代わりとなっています。そのセクション内も、先頭が「○」の小さなトピックスの集合体です。すなわち本書は、虫食いのようにどこから読んでも、楽しめる編集となっています。実用書でかつて20万部の売り上げ実績を持つ、隠れたベストセラー作家にして元大学教授の、これが真骨頂といえましょう。
<凡例|本書P42~P43>
◎1897年(明治30年)10月2日、35歳の初代校長・新渡戸稲造は、多忙・過労から体調を崩し、校長職在任のまま、神経症療養のため夫人と共に札幌を離れた。
○夜学校創設から3年9か月後、新渡戸35歳1か月の時であった。
○本業など日常的な多忙に加えて、1897年(明治30年)5月31日、札幌農学校の校長不在のため新渡戸は校長代理になった。この在任中に、6月13日、農学校裏で発生した火災で寄宿舎生と警官とが乱闘を起こしたり、寄宿舎内で飲酒をした事件が発生したりして、病気がちの上に心労が重なった。
○新渡戸の静養先は、最初は神奈川県鎌倉の所有別荘、次は翌1898年(明治31年)1月13日から5月末まで静岡県沼津の旅館、その後はアメリカへ向かうまで群馬県群馬郡の伊香保温泉(現・渋川市伊香保町)の旅館であった。この滞在時に新渡戸は、札幌農学校卒業生の小谷武治に筆記させて、口述で『農業発達史』と『農業本論』を著した。(『農業発達史』は1898年(明治31年)8月大日本實業學會から発行し、『農業本論』は同年9月2日裳華房から出版した)
○新渡戸は、北海道庁技師も札幌農學校教授職も、はじめ休職としていたが、療養が長引いたため、北海道庁は1898年(明治31年)3月7日で、札幌農學校は同年3月8日で教授職を退いた(完全な依願退職は同年8月23日)。まだ35歳であった。1891年(明治24年)3月末からの札幌農學校教授時代は7年間で終わった。
○1898年(明治31年)7月27日に横浜を発ち、新渡戸夫妻はカナダ経由でアメリカに行き、10月下旬からカリフォルニア州南部のモントレーのリゾートホテルで気分が安らかになるよう療養生活に入った。ここに滞在中、稲造は、友人のアナ・C・ハーツホーンの口述筆記の協力を得て、著名な英文著書 ❝Bushido, The Soul of Japan❞(武士道:日本の魂)を書き、アメリカのフィラデルフィアで最初のものを出版した(2004年(平成16年)7月1日刊行の日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』項目「新渡戸まり子」によると、夫人との対話から生まれたものであるとされる。常日ごろ、萬里子夫人からも日本の風習や思想についてしばしば質問されていたので、これらの疑問に対して、稲造は自分の知識や経験で答えてみようと試みたのであった)。発行年月日については混乱があるようなので、改めてとりあげる。(⇨1900年(明治33年)1月)
○1899年(明治32年)3月27日、新渡戸は、モントレーで療養生活を送っていた時、東京帝國大學評議會の推薦で、佐藤昌介とともに日本初の農學博士となった。
○1933年(昭和8年)10月15日、71歳時、旅先のカナダで死亡するまで、新渡戸は遠友夜學校の校長職に約39年間(不在期間約36年間)就いていたが、この間に実際に来校したのは、1909年(明治42年)6月15日(46歳時、離札約12年後)と1931年(昭和6年)5月18日(68歳時、離札約33年後)の2回だけだった。
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